体験談

私の人生、世の為、人の為に尽くす/香川教区栄える会 細井香

2022年2月12日  

 私は1941年11月21日生まれの80歳になりました。振り返れば多くの人々に助けられ今の幸せがあり感謝のかぎりです。父は気管支喘息の持病を持っており、病弱な父親を助けるべく農作業は母と5人の子供の肩にかかっていました。朝は暗いうちから田んぼに出て、学校から帰ると深夜まで働きました。部落の人達は自分の田のしつけが終わると我が家の田んぼの手助けに来てくれました。
 私は小さい頃より慢性中耳炎にかかり、両耳共鼓膜に穴があいているため人の話は半分くらいしか聞こえません。中学校を卒業する時、兄は私の体を見て不憫に思い、社会に出ると苦労するだろうとの思いで農業の後取りになるようにと私に勧めました。当時後取りは長男が継ぐのが当たり前の時代でしたので、兄に感謝しました。また先生のはからいで奨学資金を頂くことが出来、この感謝の思いは社会に出たら何百倍にもして返す事を心に誓いました。
 そして「私の人生、世の為、人の為に尽くしたい」という思いが、ボランティア活動の動機にもなっています。1995年の「阪神・淡路大震災」では、私はすぐに支援を始め、12月末の餅つきまで支援を続けました。2011年に起きた東日本大震災では、20,000名もの尊い命が奪われ、福島原発の事故は放射能被害が今も続いています。私は3月30日新潟廻りで現地に入りました。大型トラックに炊き出し用さぬき打ち込みうどん1,000食分と大釜、ガス、軽油ドラムを4本、冬用衣料、毛布を山盛りに積み、一路宮城県南三陸町へ高松から1,400kmを22時間かけて走りに走り、一刻でも早くとの思いで行きました。
 さて、農業一筋で施設園芸カーネーション専門農家として15年従事した私ですが、その後塗装業へ進出し、15年を経て新たに飲食業「レストラン和幸」を設立しました。
 ある日新聞で「人口の7人に1人の子供が三度の食事も十分に摂れない貧困層である」との記事を読み、こんな豊かな日本に三度のOLYMPUS DIGITAL CAMERA[/caption]食事がままならぬ子供達がいる事に衝撃を受け「何とかしなくては」との思いが日に日に募り、2021年8月から自分のお店「和幸」で、こども食堂をスタートしました。チラシ5,000枚を地域の小、中学校に配布しレストラン和幸のお客様にもお願いして、食料品、学用品、生理用品、靴、服、カバン、おもちゃ、本等の寄付のお願いをしました。思いがけぬほどの提供を頂き、食事と共にプレゼントしています。
開設にあたり、香川教区栄える会や地域の高松東ライオンズクラブから支援をいただいています。また大勢のボランティアで支援をしてくださる人達もおられ、テントや看板など一式をプレゼントしてくださる方もおられて感謝しています。開設当日は、高松市社会福祉協議会の所長様をはじめ、高松東ライオンズクラブ会長様や地域の作業所長様をはじめ多くの地域の方々のご支援をいただき運営に弾みがつきました。感謝のかぎりです。
こども食堂は、お店の定休日を利用して第1・第3の火曜日午後3時から6時までお店を使って食事を提供しています。どなたでも無料です。この事がNHKの目に留まり、昨年11月に取材を受けました。中国・四国地域でご紹介いただきましたところ、その後びっくりするほどの子供達が来店してくれました。たくさんの人達の温かいご支援に心から感謝しています。


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