女性経営者,繁栄ストーリー

繁栄は自然を冒瀆しない謙虚な生き方から

2015年5月16日  


大生自動車工業(株)取締役   多和田 美子

多和田美子

「大切なのは決意」と肝に銘じた出来事

皆さまありがとうございます(拍手)。私は15歳で生長の家にご縁を頂きまして、早60年が経ちました。お陰様で「毎日がルンルンワクワク」を合い言葉に、家庭も仕事も幸せな日々を送らせていただいております。 実は私は4歳の頃に、近所の子供達と神社で遊んでいる時に、子供達が石灯籠に登ったために石灯籠が倒れて、その石の一部が大腿部に落ちて来て、複雑骨折しました。戦後間もない時で、あちこちの病院に連れて行って貰い、手術もしないままに何とか治りましたけれど、中学3年まで体育をやった事がないほどのひどいびっこを引いておりました。それが15歳で生長の家青年会の会員となって、楽しく活動しているうちに、「本当にびっこを引いていたの?」と言われるほど、普通に歩けるようになったのです。 ところが70歳ちょっと前くらいからでしょうか、その脚が激痛に襲われるようになり、人前では元気そうに振舞っておりましたが、実は家の中では朝起きると一歩も歩けなくて、杖をついておりました。寝ていても体の向きを変えるのも一苦労の状態だったのです。ですから出講の時は痛み止めを持参しておりました。 昨年7月に「しっかり練成を受けてみよう」と思いたちまして、飛田給の本部練成道場で一般練成会を受けました。今までは皆さんの前に立って、講師としてお話する事が多かったのですが、今回は皆さんと一緒に練成を受けて、最前列で毎日早朝行事をやりたいと決意しておりました。当時、自宅では、小さい椅子に座らないと、神想観が出来ない状態でした。だけど「全部の行事にしっかり出て、早朝行事もきちっと座って、神想観をやり、聖経も誦げたい!」という物凄い決意があって、神様に必死で祈ったんですよ。「どうかこの10日間の練成を、一度も足を崩さないでしっかり神想観が出来ますように。もし足を崩しそうになったり、手がだるくて下に下がりそうになったら、神様、助けてくださいー」って、絶叫の如く神様にお願いをして、神想観に臨みました。 ところが飛田給に来る道中半分は、杖をついて来たような状態だったのに、早朝行事の間の1時間以上、一度も足も崩さなければ、姿勢も崩さないで、神想観も聖経読誦も出来たんです。そればかりか、気が付くと、脚の痛みもなくなって、すっかり治ってしまったのです!「今までの6年間の足の痛みは何だったの?」と言うくらいに(拍手)。 私は、それからは思うようになりました。真理を聴いて、読んで、素晴らしいと思うだけでは駄目だと。深く決意することが本当に大切なのだと。さらに深く決意したことは、何があっても「ハイ」と受けること。人に対しても、出来事に対しても、教えに対しても「ハイ」と受ける。これも並々ならぬ決意ですよね。そしたらこんなにも「ハイ」をすることで、楽に渡って行けるんだということを、今はしみじみと体験しています。

教えに導かれるまで

私の父は職業軍人でしたので、戦後は経済的にも大変な苦境に陥りまして、これ以上ないほどの貧困家庭になりました。私は4人兄弟でしたが、一番辛かったのは「ザーッ」と雨が降ると、兄弟で傘の奪い合いになるのです。だから傘がない者は学校を休むしかない状態でした。私はその頃、小児腎盂炎、ネフローゼという病気を患っておりました。やがて高校進学の時が来ました。私は将来の夢があったのですが、その目的達成のためには、大学進学が必要でした。ところが幾ら成績が良くても、ある晩、「金がないために娘を進学させられないのが親として辛い」と男泣きしている父の姿を知った時に、私は二度と進学を口にせず、将来の夢を諦めたのでした。 やがて春が来て、家の前を毎朝同級生が制服に身を包んで通学する姿を見るのが辛くて、私はノイローゼになりました。ある日、駅のプラットホームに立っている私を見た生長の家青年会の女子の方が、「何か只事ではない」と感じたと後に言われましたが、その方に誘われて、初めて生長の家の教化部に行きました。皆さん「ありがとうございます」と弾けるような声と笑顔で迎えてくださったんですね。そして皆さんが勉強していらっしゃるのを聴いていたら、「皆神の子だ」という事と、「この世に神様が愛(めぐ)し子を誕生させるにあたっては、その人だけにしかない天分を与えていらっしゃるし、そのために必要な人脈も、お金も、すべての必要な物は整えて出してくださるから、大安心ですよ」という言葉が心に残ったんです。「私に無いものがあっても大丈夫」とおっしゃっている。私は学歴もないからなりたいものにはなれない。それに病気で、びっこで、お金もない。何にもない。私は人生を挫折したのに、そんなもの何にも必要ないとおっしゃっている。私も生長の家を一所懸命勉強したら、幸せになれるかなあと思ったんですね。「ウワー、これで助かる!なんて私って凄いんだろう。天分貰って生まれて来ているんだって」という嬉しさで、帰り道の草木が、金色に輝いたことを覚えています。それが元で青年会に入り、8年間活動しました。神想観は一度も欠かしたことがなく、当時我家は洋服屋でしたので、店を手伝って夜になると、どんな暑い日も寒い日も、街頭に立って、昔の『理想世界』誌を配り続ける活動を続けました。そして23歳の時に、気立ての好い、ハンサムな同じ青年会員の男性と結婚しました。

婚家先の人々を観世音菩薩として拝む日々

私は主人の人柄に惹かれ、生長の家の信仰を同じくする人であり、彼のお父さんは地方講師でしたから、安心して結婚したのですが、実は何も知らなかったに等しい事が解りました。彼の家は多和田家の総本家であり、周りは全て多和田を名のっていて、親類は多くて、お母さんは生長の家が嫌いでした。姉は2人の子供を連れた出戻りですし、真っ暗くて広い家の離れには、妹は結核で寝ているし、2人の弟は事ある毎に私に暴力を振るうのです。ある時などは、飛んで来た薪が顔に当って、顔半分がお岩さんのようになりました。お父さんとお母さんは、生長の家を巡って争っておられる。主人はと言えば、「我慢してくれ」とも「済まない」とも言わない。 「何という家に嫁いだのだろう」と余りの事に悩みましたが、私は、8年間の女子青年会活動の中で、「全知全能の神様がいらっしゃって、神は善である」というのがもう骨の髄にまで染み透るほど学んで来た訳です。姉に本を焼かれたこともあり、一日も欠かしたことのない神想観が私のすべてでした。皆が寝静まると、一所懸命神想観をしました。神想観をして毎日神様に訊きました。「どうして私はこんな所に嫁いだのですか?私に何をせよと神様はおっしゃるのですか?」と。初めは8年間真剣に学んで来たお前なら、この家のもつれた糸をほぐせるという役目を授かって来たように思えていたのですが、何も変わりません。 そんなある日、地鳴りのような声が、私の心に響いて来ました。「お前がそこを望んだんだーっ」と聞こえたんですよ。私は飛び上がるように驚きました。そして「しまったー」と思いました。私は純粋な信仰で、この家を光明化せよと言われて、嫁いだのが神様の意図だと思っていたけれど、「間違っていたー」と、瞬時に思ったんです。そうではなくて、私の奥底の魂が、この環境で、魂がもっと純化され、聖化されて行く、それを望んでここへ来たのだと。 それなら生長の家が大嫌いなあの恐いお母さんも、姉も、肺結核の妹も、暴力を振るう弟達も、何も言ってくれない主人も、何だ、みんな私の先生だと瞬時に思えたから不思議ですね。私がここを望んだのなら、周囲は皆、観世音菩薩、私の先生だった。「しまったー」と思ったのです。 それからはもう全てを拝んで、「お母さん、お母さん」と金魚の糞の様について歩き、「お姉さん、お姉さん」と、親しく呼びかけました。心の中で「お母さん観世音菩薩」「お姉さん観世音菩薩」と拝みながら。するとお母さんも可愛がって下さるし、3~4年の間に、親族皆が生長の家に変わって行く訳ですよ。勿論その間、「きっと本来は素晴らしい家庭に違いないけれど、徳が切れているのかもしれない」と思ったので、墓を巡っては墓誌を書き写して、多和田家のご先祖様を調べ歩いて、しっかり先祖供養をする、そのような努力を凄くしました。 父は嫁いで間もなく亡くなり、結核だった妹も亡くなりました。姉も子供を連れて婚家に帰り、後には生長の家の地方講師になりました。今では親族みんな和気藹々とやっています。このような私の体験から言えることは、皆私が望んだ事であり、全ては観世音菩薩であり、この高い所まで登っておいでよと、呼びかけて下さる先生、観世音菩薩に間違いありませんでした。

会社設立50年3度の危機を乗り越えて

その頃主人が「多和田工業所」を立ち上げるんですね。昭和37年に、「大生自動車工業株式会社」という株式システムに改組しました。設立当初から、私は会社の全部の資金繰りと金庫番をやって参りました。現在は生長の家の信仰深い息子が社長となり、頑張っておりますが、取引先の倒産などで危機が2度ありましたが、3度目の危機は、税理士が「大生さんも店を閉める段取りをした方がいいかもしれません」と言われるほどの危機でした。当時私は栄える会の会頭を無理に頼まれて、「引き受けなさい」という主人の一言で、何も解らず引き受けていたので、毎日その勉強もしなければなりませんでしたが、会社の売り上げは減る一方でした。仕方なく銀行に借り入れをお願いに出かけましたが「貸せません」と断られ、いつも「借りてくれ」と押しつけるくせに、この大事な時にと喧嘩して帰って来ました。 その旨を告げると、当時専務の息子が、「そりゃそうだろうね」と言ったのです。「倒産するかもしれない会社には貸さないよ」と言うのだろうと思ったのですが、息子は「僕たちの信仰が甘いということだよ」と言うのでした。これには本当に驚きました。それまでやれる事は全てやったと思っていました。主人と2人で朝4時に会社に行き、聖経を誦げ、社員や取引先全てを祝福祈願をし、現場の大小の工具に感謝の聖経を誦げ、それから笑いの練習をし、窓を開け放って「今日もあちらから仕事が一杯やって来たー」と3~4カ月やったのです。「売上が少しずつ上って来たかしらね」などと言いながら。 でも今度は大きな不渡り手形を貰って、どうしようもない所に追い込まれました。つまり今までやって来た事が甘いということなのですが、ではどうすればよいのか?昔息子が、修行して帰って来た当時に、「僕は時代がどれだけ浮き沈みがあっても、神様に必要とされる会社を作りたい」とよく言っていた。それで社員が引けた後息子と私達3人で、聖典を並べ、会社の決算書などを全部並べて、どこが間違っているのか? 答えは直ぐに解りました。 言葉なんです。善なる神を信じ切れずに、「もうすぐ倒産するかもしれない」「何でこんなに仕事が入って来ないんだ」と、営業は帰るや「駄目でした」とマイナスばかり言っている。「先ず決断、決意して、言葉を変えようよ」と。それからは、大きな横断幕を作り、「我が社はここで繁栄のみを語る」と、掲げました。そして「繁栄だ」「ありがたいな」「嬉しいな」などのシールを作り、事務所の電話、自動車の運転席、大小の工具に貼りました。「今年度売上目標」は、私達が付加価値を付けてお返しする「顧客満足度」のはずだと、それで内部資料には、シールを貼ってそのように変え、資本金も、「我が社の資本は神の子社員」と、全部貼るんですね。そして動力費、運搬費、人件費も削減ではなくて、「神様からお預かりしているものを生かし切ることが大切だ」、と言うので、会社、工場の中を隈なく点検して、活かせる物は生かし、譲る物は譲り、処分すべき物は処分すると区別して行きました。 やがて社員たちが「勿体ない」と言うようになり、運搬するにも「大きなトラックでは勿体ない。ここで小さいトラックと出会うから、そこで移し換えよう」と言う様になりました。

取引先に認められ大きな仕事を与えられる

その様な努力の中、お取引社に「大生自動車工業社は素晴らしい」と認められ、ある日息子が設計書を沢山抱えて帰って来ました。「我が社で造った部品を運ぶにも、フォークリフトを次に使い易いように返しておくのはお宅だけだ」と褒められて、「ドル箱の部品を2つ、3つ持って行け」と、仕事を頂いて来たのでした。それをきっかけに売上が物凄く伸びまして、会社は持ち直すだけでなく、大いに繁栄させて頂くようになったのでした。 この体験から利益金も、人も、物も、事がらも、時間さえも、神様からのお預かりした無限の愛と智恵との付加価値を付けてお返しすることを学びました。全て神様から、自然から頂いた物を預かって私達は生きています。凡てに感謝して、「ハイ」をして、謙虚に生きる。死材をなくし、自然を冒?せずに生きる。時間を殺し、物を殺しながら富めるはずはありません。生長の家の提唱する環境問題の原点もここにありますね。どうぞ皆さま、よろしくお願いいたします。有難うございます(拍手)。

○平成27年2月13日開催「経営トップセミナー」の講話より○

 


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