体験談

愛を与える人生の喜び 鳥取教区栄える会/宮内 利正

2023年11月6日  

私が生長の家に触れたのは、妻が生長の家の活動をしていたことがきっかけです。1969年に妻と結婚し、大阪に住んでおりました。その当時は、保護観察官の仕事一辺倒で宗教には無関心でありました。一方、妻は既に生長の家を信仰していた私の母の影響を受け、誌友会に行ったり、神想観を始めました。『生命の實相』や『ひかりの言葉』が家にありましたので、私も生長の家を意識していましたが活動には参加せず、時折、宇治別格本山の参拝や、新春練成会に家族で参加する程度でありました。

保護観察官という仕事は転勤が多く、東京、鳥取、広島と様々な都市を巡りました。広島に住んでいるとき、妻は毎日欠かさず早朝神想観に行くようになりました。私も妻とともに練成会に参加し、教化部長の講話を聞きました。

49歳のとき、忘れもしないことがありました。ある日寝室の天井に「ありがとうございます すでに保護観察所長になりました」と墨で書かれた大きな紙が貼られていたのです。妻が書いたもので最初は「こんなことをして」と思いましたが、毎日見ているうちに言葉が心に沁みるようになってきました。すると次の年、和歌山の保護観察所長を命じられ、“コトバの力”を強く実感しました。それから妻の本棚にある『奇跡を生ずる實相哲学』(谷口雅春先生著)を始めとする聖典を拝読するようになり、次第に「人間は神の子である」という真理に共感を覚えるようになりました。その後、妻は私の母の介護のため、私の実家がある鳥取に帰り、鳥取教区で生長の家の活動を始め、しばらくして白 鳩会教区連合会長を拝命しました。私も何かお手伝いをしようと考え、講習会開催時には帰郷し、信徒さんのバス送迎のお手伝いをしました。

生長の家の御教えを学ぶうちに、信仰への気持ちも厚くなり、対人関係はすこぶるよくなりました。2005年3月で保護観察官を退官する前には、大阪の少年施設の施設長にと強く懇願され同施設に就職することとなりました。同時に保護司を拝命し、日夜非行少年と取っ組んだ生活をしました。処遇に関する理論だけでは現場はなかなか通用しがたく、結局、少年一人ひとりに沿った処遇が必要です。こちらが信頼しないと、相手も信頼してくれません。そこで私は、この人は神の子なのだと、偏見なく温かい目で接することを心がけました。生長の家の真理を知っているからこそ、愛情を持って本人の立場に立ち、辛抱強く対象者を受容することができました。幼少期の環境が悪く、愛情に飢えている子供たちには愛を与える以外に方法はありません。信頼関係ができてくると甘えが出てきますが、ここが肝心で、しっかりと社会のルールを教えていかなければなりません。仕事を通して、ある距離をもって話し合いを進め、成長を図っておりましたが、それが私の成長にもなりました。保護司の仕事は定年の78歳まで続け、かなりの少年を担当いたしました。神の子としての少年の側に立って援助し、多くの少年を保護観察期間前に良好解除といたしました。現在は80歳を越えましたが、地方講師として事業や生活問題で苦しんでいる方々へ生長の家の御教えを伝え、これからも日時計主義を基本とした活動に邁進してまいります。


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