WEB版誌友会

2014.12 『満ち足りた心で暮らす』

2015年9月9日  

2014.12

 テキスト

『突然の恋』 谷口純子先生著

『新版幸福を招く365章』 谷口雅春先生著

 

今年も後僅かとなりましたが、あなたは、今年、どんな喜びや善いことがありましたか。特別なことはなくても、家族皆が、健康で何事もなく平穏無事に過ごせたことが、何より幸せな有り難いことではないでしょうか。今月のテーマは「満ち足りた心で暮らす」です。

 

心の幸福が本当の幸福

 

冬には太陽の日差しがとても有り難いですね。寒い日でも、お天気の良い日には、太陽の光を受けて、南向きの部屋は、暖房がいらないくらい温かく、明るく、快適に過ごすことができます。太陽の恵みに感謝せずにはおれません。

このように、私たちは日々、当たり前と思っていることの中に、数え切れないくらいの自然(神様)の恵みを頂います。このことに気づくと心が満ち足りた穏やかな気持ちになり、自ずと、回りの人々にも喜びや感謝の気持ちをあらわしたくなりますね。感謝、讃嘆の言葉と共に、真心の愛を出していくと、家族や職場は調和して天国となります。目の前に、心配事や不安、不足、不満と思えることがあっても、現実の中の、善いこと、感謝すべきこと、喜び、感動したこと等に注目し、『日時計日記』等に書いて心に強く印象付けていくと、心が喜びで満たされます。周囲からも喜びや感動が返ってくると、心が豊かに満たされ、今までの不足、不満の心が無くなり、幸せな気持ちになり、本当に幸せだと思えるようになります。これが、生長の家がお勧めしている「日時計主義の生き方」です。

日時計主義の喜びの生活を実践しましょう。

 

生長の家創始者・谷口雅春先生は、『新版幸福を招く365章』の中で、次のようにお説き下さっています。(254~255頁)

 

この事さえ成就すれば私は屹度幸福になれると思っている人が、それが成就した後で幸福になれない実例は沢山ある。胃病の人は胃が治れば幸福になれると思うが、胃が治ったあとは又別なことを悩み出すのである。あの女と結婚すれば幸福になれると思っていた人が結婚した後に毎日夫婦喧嘩をして決して幸福でない実例もある。これだけ富が出来たら屹度幸福だと思っていた人が、それだけ富が出来たときに、社会的な色々複雑な問題が紛糾して幸福になれない人もある。考えて見れば、幸福とは個々の事物にあるのではなく、其人の心の状態にあるのである。心の幸福な人は常に幸福な人である。

 

私たちは、人間知恵を働かせて、物が増えたら、希望が叶ったら幸せになれると思って、色々努力してみますが、幸せになれる人とそうでない人がいます。それは、心で想うことが現れるという「原因結果の心の法則」が働きますから、その人の心の持ち方によって、結果が出て来るということです。

「富」を持っている人が、必ずしも幸福であるとは限りません。家族に病人がいたり、悩み、憎み、嫉妬等の気持ちを持っていると、心が平和で安らかな気持ちにはなれません。常に、神の恵みを感じて感謝や喜びで心が満たされていると、しみじみと幸福だと感じることができるのです。そういう気持ちになれば、物やお金はなくても、神様から既に頂いている無限の富(智恵、愛、生命)に気づき、それを他に与えることにより、「動反動の心の法則」が働いて、自ずと、幸福も富も得られるのです。

 

身の回りにあるものを大切に、感謝の日々を送る

 

白鳩会総裁・谷口純子先生はご著書『突然の恋』の「いいこと探し」の中で、次のように、お説き下さっています。(136~137頁)

 

午前中の「よい出来事」だけでもこんなに沢山あって、日記の狭いスペースには書き込めないほどである。特別なことは何一つないが、それらを書くことによって、日常の忘れ去られる細々とした「良いこと」が深く印象づけられる。すると、平凡で単調だと思っていた日々が、多くの恵みに満たされ、かけがえのない日であることに気がつくのである。

私もかつては、喜びや楽しいことは「外からやってくる」と思っていた。なぜなら喜びや楽しみは「特別」だと考え、何か非日常で、特別に大げさなものだと思っていたからである。しかし、喜びや楽しみは、本当は自分自身の日常の中にある。それは誰の日常の中にもあり、ただ必要なのは、それを「見出す心」だけだと知ったのである。こうなると、自分主体の積極的な生活を送ることができるのだ。

 

日常の中の当たり前のことに喜びや感謝を見出すには、肉眼の目を外して、心の眼で日常の真象(現象に現れている真実の存在を反映するもの)を見出していくことが大切です。

そのためには、「三正行」をしましょう。

三正行とは、第一は、生長の家の座禅的瞑想法である神想観です。私たちは、普段、五感(目、耳、鼻、口、皮膚)の感覚によって物事を判断しますが、それだけでは、真実のもの(実相)を捉えることはできません。そこで、神想観をして、神様との一体感を深め、神様に波長を合わせます。そして、人間は肉体ではなく、神様の無限の恵と愛と生命によって生かされた神の子であり全ての善きものは既に神様から与えられ済みであることを深く自覚します。第二は、聖経・讃歌・聖典読誦をして真理の理解を深めること、第三は愛行です。常に、神様に波長を合わせて、神の子の神性・仏性を、具体的な行動として現して生きることが人間の使命であることが分かると、家族にも愛深く接し、外に向かっても、自分に与えられた仕事を明るく積極的に行うようになり、必要なものが必要な時に現れ、万事は好都合に運んで、自分の人生を積極的に生きることができるのです。

 

万物の奧にある、神のいのちを拝む

 

生長の家の「大調和の神示」には、「汝ら、天地一切のものと和解せよ」という真理が次の様に説かれています。

 

天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。怺えたり我慢しているのでは、心の奥底で和解していぬ。感謝し合ったとき本当の和解が成立する。神に感謝しても、天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救の念波を能う受けぬ。(省略)

一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。その感謝の念の内にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはゐる。

 

神は、人間だけでなく、動物も植物も鉱物も、全てのものの創り主であり、全てのものは神の生命のあらわれであり、神の生命と一体なのです。

全てのものを神の生命のあらわれとして拝むことによって、神と自然と人間との一体感が深まります。自然は、空気、水、太陽、大地、森、海、川、波、風等、神の豊かな恵みで充ち満ちています。人間はその恩恵に浴し、生かされているのです。

ですから、私たちは、自然がなければ生きていけません。森は、動物や植物に酸素を供給してくれます。大地や太陽、雨の恵みを受けて植物が育ち、四季の美味しい野菜や果物を頂くことができます。又、豊かな森から流れ出た水は、海藻や魚介類を育てる栄養豊かな豊穣の海となります。このように、人間は自然によって生かされ、自然と結ばれているのです。

ムスビ(結び)とは、もともと離れていた存在が一つに結ばれることですが、自然界は、この結びの働きに満ちていて、「与え合う」「支え合う」ことで、成り立ち、繁栄しています。

このようなムスビの働きが自然界の特徴ですが、これと同じ働きが人間の中にもあります。

悲しい不幸な出来事、不調和な状態を見たり、聞いたりする時、それを他人事として片付けられない、「自分に何か出来ることはないだろうか」という思いに駆られます。これは私たちの心には、もともと「仏心」とか「神の子の本性」が備わっていて、自他一体の思いがあるからです。これが神の子の愛であり、「慈・悲・喜・捨」の四無量心の実践です。

「他から奪おう」とするのではなく「他を生かそう」「自他共に伸びよう」という私たちの内に宿る神の子の声です。その声を表現して、それを実生活に生かし、自然を大切にして自然を生かす生き方、自然と調和した生き方を実現して行きましょう。それが私たちから子や孫へと続く、心豊かに満ち足りた心で暮らせる、幸福の道です。