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繁栄ストーリー

「働く幸せ“利他のすすめ”」【前篇】

2015年4月19日  


日本理化学工業株式会社  取締役会長  大山泰弘

大山泰弘

ただ今ご紹介いただきました、日本理化学工業の大山泰弘です(拍手)。取締役会長と言えば聞こえはいいんですけれども、まあ学校で使うチョークを造っている会社でございます。神奈川県の川崎と北海道の美唄の二箇所に工場がありますけれども、両方合わせましても、従業員が74人という小さな会社でございます。

しかも全従業員の7割以上にあたる55人が知的障害者であり、その中の半数はIQ50以下の重度知的障害者でございます。

そのような会社ではございますが、お陰様でチョークの業界では、一番歴史の浅い会社ですが、現在、国内のチョークのシェアの32パーセントを占めており、2位とは僅かの差ではありますけれども、国内ではトップメーカーになっております(拍手)。

本日は、本社が何故、知的障害者を雇用するに至ったか、そしてどのようにしてトップメーカーとして会社経営をして来たかという事と、知的障害者である彼らから沢山の素晴らしい気づきを貰ってきた事をお伝えしたくて参りました。どうぞよろしくお願いいたします(拍手)。

知的障害者を雇用するまで

私は昭和7年に8人兄弟の長男として東京で生まれまして、31年に中央大学法学部を卒業しましたが、父が心臓弁膜症で入院したものですから、卒業と同時に、キャリアもないのに専務という立場で日本理化学工業に入社しました。

当時は東京の大田区に工場がありましたが、隣の世田谷区に「青鳥(せいちょう)養護学校」がありまして、そこの先生が昭和34年の秋、突然我が社を訪ねて来られ、「来年卒業する生徒の就職を、何とかお願いできませんか」と懇願されたのです。

法律は大学で一所懸命勉強して来ましたが、福祉の方は全然勉強しておりませんでした。当時は知的障害者という言葉ではなく精神薄弱児という言葉でした。先生からそう言われましてもその字の如く理解すれば、到底仕事などできないだろうと思い、直ぐにお断りしたのです。

その先生は諦めずにまた訪ねて来られましたが、やはりお断りしました。ところが3度目に訪ねて来られた時、次のようにおっしゃったのです。

「大山さん、就職は諦めましたが、これだけは聞いてください。この子達はまだ15歳ですが、就職ができないとこのまま一生施設に入る事になります。しかも東京には施設が少ないので地方の施設に入ります。だからせめて、人が働くとはどういう事か、その事を是非体験させてやりたいのです。何日でも結構ですからお願いいたします」。こう言われ、深々と頭を下げられたのです。

その言葉と姿勢に心を動かされ、二人の女の子を預かることにし、従業員に協力をお願いして、2週間だけ実習して貰うことにしました。

ところが今日が最後という日に、5、6人の従業員が事務所に来まして、「お昼のベルが鳴ってもまだ働いているような子達で、本当に健気に熱心に働いてくれました。15歳と言えばうちの子供と同じ年です。本当に良い子達です。私達も面倒を見ますから、卒業したらここで働けるようにしてあげてください」と訴えたのです。それで昭和35年4月から、その二人の女の子を就職させることにしたのです(拍手)。

それが現在のように55人もの知的障害者の子達が働くようになったのは、次のような事があったからでした。

心に響いたご住職の言葉

二人の女の子が就職して3、4年経った頃、禅寺で業界の法事がありまして、お昼の食事をいただく時、父の代理で座っていた私の隣にご住職が座られたのです。

そのご住職に私は、日頃から疑問に思っていたことを、率直に問いかけてみました。「ご住職、我が社はチョークを造っていますが、字も読めず、数もチャンと数えることができない子達が働いているんです。ああいう子達は施設で大事に面倒を見られた方が幸せだと思うんですが、遅刻もせずに毎日会社に来て働いているんです。不思議なんですよ」と。

そう言いましたら、それまで笑顔だったご住職がキッと顔を上げられまして、「大山さん、人間というものは、大事に面倒を見られたら幸せと思っているんですか。とんでもないですよ。人間の究極の幸せは4つあります。1つは、愛されること。2つは、褒められること。3つは、人の役に立つこと、4つは、人に必要とされることなんですよ。施設に入っても、『あなたがいないと困る』なんて、そんな言葉はかけて貰えないでしょう。会社に入ってこそ、『助かった、どうもありがとう』と、そんな嬉しい言葉をかけて貰えるのでしょう。施設が人間を幸せにするのではなくて、企業が人間を幸せにしてあげているのですよ」と、こう言われたのです(拍手)。

そのご住職の言葉を聞いて、「人を幸せにするのが企業なのか。チョーク製造の我が社はどんなに頑張っても大企業にはなれないだろうが、それならば、知的障害者の人達が一人でも多く働ける会社にして、頑張ってみようかな」。そう思ったのでした(拍手)。ありがとうございます。

「知的障害者が働くモデル工場」の要請

それともう一つは昭和48年に、労働省(現厚生労働省)から直接電話がありまして、次のような事を要請されたのです。

それは昭和35年に、「障害者雇用促進に関する法律」が制定されましたけれども、なかなか企業の雇用が進まない。そこで助成金を出す事は財政上できないので、次の内容を満たす企業が工場を造る時は、国が全額融資する、というものでした。

それは、「企業の雇用された全従業員の50パーセント以上が障害者であり、且つ、その雇用された障害者の半分は、重度の障害者である事」という厳しい内容でした。しかも「その内容で新しく工場を造るならば、国は全額融資するけれども、4.7パーセントの利息を付けて20年間で償還する事」というものでした。

電話は「身体障害者についての申請企業は、全国から融資をという事で上がって来ているんですけれども、知的障害者の雇用をしている企業自体が少なく、そのモデル工場の申請は上がって来ないのです。国としてはどうしても知的障害者のモデル企業が必要なので是非お願いしたい。それに理化学さんには、うちの大臣が視察に行っていますよね」というものでした。

確かに昭和40年に、当時の石田博英労働大臣が視察に来られた事がありました。だから是非とも知的障害者のモデル工場の申請に手を上げてほしいと懇願されたのです。

当時の我が社は、大田区の最初の工場が戦災で焼けてしまったので、同じ池上沿線の畑の中に大きな建物がポツンとあった土地を借りて工場にしていました。けれどもそこが宅地になってしまうことになり、どこかに新しく工場を造らなければならなくなっていたのです。

それで大田区のどこかにと、当時の美濃部都知事に事情を話してお願いしましたら、東京都でも大田区に福祉工場を造る予定なのでと断られてしまいました。

それでは多摩川を渡れば川崎市ですので、川崎市長を訪ねてお願いしましたら、「民間で造ってくだされば行政は助かります。障害者の皆さんも施設よりも企業で働く方がずっと生き甲斐があるでしょう。応援しますから、是非とも」という事になり、川崎市の高津に、労働省に応えて知的障害者を多数雇用したモデル工場を造ることになったのです。

1億2千万円弱を借りて、昭和50年にモデル工場が完成し、50パーセントが知的障害者で、その半分は重度の知的障害者の従業員という体制でスタートしたのです。

チョークメーカーのトップとなる

昭和52年、当時、重度の障害者を雇用するに当っては、最低賃金の適用除外とするという制度ができました。すなわち最低賃金より2割から3割低くてもよろしいと言うので、その申請に参りましたら、なかなか進まなくて時間だけが過ぎて行きました。

こんな事では会社も困るからもう諦めまして、その人達にも最低賃金を払おうと決めたのです。お陰様で、国にも全ての借入金の返済を利子を付けてお返しでき、且つ重度の知的障害者の人にも最低賃金以上の給与を支払いながら、チョークメーカーのトップとなる事ができました(拍手)。

この事を通しまして私は、世の中の人に、「知的障害を持っていても、企業が努力し対応すれば、チャンと企業経営が成り立つ」という証をお示しする事ができたのではないかと思っているのです(拍手)。

彼らを育成するための努力

ではどのようにして、マイナスの多い雇用条件なのに、立派に企業経営を成り立たせて来たのかという事をお話します。それは色々な努力と工夫を重ねて参りました。

彼らは字が読めないし、数字も解りません。しかし彼らの仕事は、チョークの材料を間違いなく計ってもらうというものでした。始めの頃は、なかなか生長が見られませんでしたが、ある時こんな事に気がついたのです。

それは、彼らは毎朝、電車で通勤し、最寄り駅で降りて、事故もなく工場に通って来ます。その理由は、信号の色を覚えて、きちんとルールを守っているからではないかということでした。そこで工場でも、彼らがチョークを造る作業の中で、やってきた事を今まで通り教えるのではなく、色によって仕事を覚えて貰い、結果的にその仕事ができるようにすれば良いのではないかと考えたのです。

我が社のチョークは、カルシウムに微量のバインダー(ベースインク)を混ぜて、それを練り込んで、成型して乾燥し仕上げるものですから、計量の仕事があります。

そこで材料を計量するのに、袋から一回り大きな缶に変え、それを赤く塗る。赤い缶から出したら、毎日一定の目方ですから、秤を用意して、秤を缶と同じ赤い色にする。そして針が真ん中に行ったら降ろすんだよ、と教えたのです。

さらにマネージャーはもう一工夫して、「針が真ん中に行ったら、直ぐ降ろすんじゃないんだよ。針が真ん中に行ったと思ったら、指を五つ折るんだ。それでも真ん中で止まっていたら、それから降ろすんだよ」と教えた。万事このように小さな所まで心配(こころくば)りをしながら教え、赤、青、黄色などチョークの色に従って缶などの色を統一してやらせたところ、見事に成功したのです(拍手)。

しかもマネージャーは、彼らの見えない所に隠れて彼らを見守り、成功すると直ぐにかけ寄って彼らをしっかり誉めたのです。誉められる喜びを知って、飽きっぽかった男の子も、ますます熱心によい仕事をして、30いくつのロットの計量を休まずやってくれるまでになりました(拍手)。

重度の知的障害者が造るJISマーク付きのチョーク

この事により、知的障害者であっても、彼らの理解力に合わせて、工程に工夫を凝らして、そして誉めてあげると、一所懸命仕事をやってくれるのだと解りました。

このようにして、一人のマネージャーと13人の重度障害者によって、一日10万本のチョークが造られています。川崎と美唄とで、一日20万本の色とりどりのチョークが造られ、沖縄から北海道まで流通されているのです。

しかも、JISマーク付きのチョークが造られているのです。JISマークに合格するには、長さや太さ、欠損強度などが決まっています。これ以外の品は市場に出しませんという約束でJISマークのOKを貰うんです。これをIQ50以下の子供達がやるのですが、そこにも工夫をして、材料を練る時間を計るのに砂時計を用意して、きちんと一定時間通りに機械を動かす事ができるようにしました。

そしてチョークの検査ですが、太さが11ミリ±0.5ミリと行政で決まっています。それで11.5ミリの溝を掘って、それをだんだん狭く細くして、途中で引っかかった物は合格、落ちてしまった物は不合格と解るようにしました。

重度の知的障害者であっても一般企業に負けない商品を造ることができる

ですから知的障害、それも重度の知的障害をもっていても、企業の努力と誉める教育によって、立派な製品を、一般企業に負けない能率で造る事ができるのです(拍手)。

一つ加えますと、我が社がIQ50以下の子供達を雇用する条件に4つの約束があります。

  • 一つ、飲食、排泄などの身辺処理が一人でできる事。
  • 二つ、簡単でも良いから返事ができる事。
  • 三つ、言われた事を一所懸命やる事。
  • 四つ、周りの人に迷惑をかけない事。

これをお父さん、お母さんのもとで「約束を守ります」と確認をして雇用します。

しかし四つ目の約束が守れない時は、その場で仕事をストップさせて、家や寮に電話をして、「周りに迷惑をかけたので、これから帰します。本人の口から『もうしませんから、お父さん、お母さん、会社に行けるように頼んで』と、そういう言葉が返って来たら、直ぐに電話をください。そうしたら翌日は、普通に会社に寄越してあげてください」と言ってあるのです。

こういう約束を取り付けて雇用をしていますから重度の子達でも、企業の対応さえちゃんとしていれば、立派に働けるという事を、世の中に多少お示しできたのではないかと思っているのです(拍手)。(次号に続く)

◯「愛媛教区栄える会繁栄ゼミナール」(平成25年1月13日)での講演:生長の家愛媛県教化部◯


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