「塩の味」

 相愛会総轄実行委員長 澤田伸史

 

仏教説話の中に、「塩の味」という話があります。

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ある貧しい男が富豪の晩餐に招かれます。

御馳走が出ます。

皿に盛った豪華なものでした。

空腹だった男はむしゃぶりつきます。

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「味はどうかね」と富豪は訊きます。

「見た目より、いまひとつですな」ともの足りなさを正直に告げます。

「そうだろう。これがなかったからな」といって、傍らの壺から白い粉をつまみ出して、

皿の御馳走にふりかけると、すばらしい美味に変わります。

二皿目も三皿目も・・・同様です。

 

すっかり満腹し、男は辞去します。

富豪は、家で待つ妻子に、今夜食べた御馳走の中で一番美味しそうなものを、

土産として持って行くようにすすめます。

 

男は白い粉を求めます。

富豪は白い粉を壺ごと渡します。

帰宅した男は妻子に白い粉を食べさせます。

しかし、これを口にした妻子達は、いっせいに顔をしかめて吐き出します。

それは「塩」だったのです。

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これは、信仰とは「塩」のようなものであって、

日常生活に調味料としてまぶしてこそ最高の味を出しますが、

主食のように食べたら不味くてしょうがないものであるとの説話であります。

 

確かに、仏教の難解な言葉を時間を割いて勉強し、足が痛い思いをして座禅を組む、

これ自体は決して面白いと呼べるものではなく、

その教えを日常生活に生かし、仕事や遊びの場等、

何か自分の身の回りの生活に影響を及ぼすようになって初めて、

充実した信仰生活へと変わります。

 

私たちも、信仰によって雁字搦(がんじがら)めとなり、

真理で自分や他を裁く生き方ではなく、

日々の生活の中に「生長の家の生き方」を加え、

神の子として生かされている喜びと感謝の生活をもって、

さらに充実した味のある信仰生活を送ってまいりましょう。

 

(2015.07.03、相愛会総轄実行委員長 澤田伸史)

(「相愛会メールマガジン」、2015.07.03)


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