活動体験談

生長の家の真理に触れて(前編)/東京第二教区 ひばり野昌一

2015年10月24日  

 今号は、東京第二教区の壮年層会員・ひばり野昌一さんの体験談(教区大会で発表)をお届けいたします。

 

ありがとうございます。

本日は私が生長の家の真理にふれてどのように感じ、どのように心が変化していったのか、その体験を話させていただきます。

 

私は妻から教えられて、生長の家のみ教えにふれました。今でこそ信仰することの大切さは理解しておりますが、初めは宗教に抵抗がありました。ニュースで、宗教が元で戦争やテロが起きたり、高額な物を買わされるなどの宗教を装う詐欺が時折報道されるのを見ていましたので、「宗教=(イコール)悪」の先入観がありました。

妻、当時は彼女から生長の家の話を聞かされた時、私は少し失望しました。「宗教への勧誘ではないか?」と思いました。しかし、彼女は真剣でした。私は「確認してからでも、遅くはない」と思い、当時住んでいた茨城県の教化部に行きました。そこでは、『生命の実相』の輪読会が開催されていました。その時に、教化部長先生をはじめ、青年会の方々にお会いしました。皆さんが私を温かく迎え入れてくれていることが、言葉の雰囲気から感じとれました。「“勧誘まがいの”ものではない」ことは、接してくれた人たちを見て判断できました。

 

その輪読会で、当時、私が悩んでいたことを話しました。その頃、私が悩んでいたこととは、常に周りの人から監視されているような心境に陥り、被害者妄想のような精神状態になっていたことです。少し前に会社で厳しい上司に毎日罵倒され、精神的につらいストレスを受けていた時期がありましたので、そのことが私の精神を乱し、被害妄想の状況に陥ったのだと思います。そのことを輪読会で話し、(私の思い込みなのでしょうが)その監視している人が憎いことを話しました。

その時に教化部長先生からご指導いただいたことは、「その人はあなた自身を気づかせてくれる観世音菩薩様ですよ」ということでした。私はこのご指導・教えに非常に強い衝撃を感じました。なぜかと言いますと、「自分は今まで被害妄想的な考えで、心を散々と動揺させてきたけれど、この教えに真に従えば、心を動揺させることはもうなくなる」と思ったからです。

 

最初、私は生長の家の真理を信じるというよりも、その教えにのとった生き方をすることで精神的に強くなれるかもしれないと感じて、み教えに興味を抱いたのでした。その後、生長の家の行事のお手伝いを少しずつ行うなど、生長の家との関係が深まっていきました。次第に一日一回は、聖経を読誦するようにもなっていました。すると自然に心が整い、実生活でも物事が整うようになり、仕事も順調に運ぶようになりました。聖経読誦をさぼってしまうこともありましたが、そのような日々が続くと、連動するように仕事もうまくいかなくなったり、心が乱れたりするといった経験もしました。

初めは生長の家の真理を“自己啓発的な考え方”と捉えていた私ですが、次第に考え方なのではなく、神様へ心が向いているかどうかなんだと捉えるようになりました。心が整うことにより仕事がうまくいく体験を通して、心の状態が良くも悪くも実生活に密接な影響を及ぼすことを知りました。そして、心の安定は、聖経読誦や神想観といった行を継続することで得られることも自己の体験から学んでいきました。「弱い犬ほどよく吠える」と言いますが、神様へ向いていない時、行をさぼっている時は、些細な言葉や出来事で怒ったり、焦ったりと心を乱すことが多くありました。しかし、神様の方へ向いているときは、内底からの自信が心の動揺を抑えるなど、些細なことでは動じなくなる自分を体験することができました。

 

(平成27年度 相愛会東京第二教区大会 体験談より)

 

<<後編へ続く>>


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