澤田 伸史,真理の言葉

「物質を祈るのではなく霊を祈る」/相愛会総轄実行委員会委員長 澤田 伸史 

2016年2月11日  

「物質を祈るのではなく霊を祈る」

「祈り」とは、心のピントを神に合わせることであり、神との霊的交通であります。
キリストは、「神は霊なれば霊をもって拝すべきなり」と教えられ、さらに大聖師・谷口雅春先生は、「吾々が祈るためには「物質」を祈るのではなく「霊」を祈らなければならない」とご教示くださっており、これが祈りの最大の条件であります。
 人間は、特に信仰を持たなくとも、真剣に何かに取り組み、必ずこれを成し遂げたいと強く思うとき、おのずと「祈る」という気持ちが湧き起こってきます。それは神仏に祈るという場合や、自分なりにそれに準ずる者を設定して願う(祈る)場合もあると思います。
 「人事を尽くして天命を待つ」という諺がありますが、「人事」とは人間の力でなしうること、そして「天命」とは天が自分に与えた運命。つまり「できる限りのことをしたらあとは運を天に任せてクヨクヨしない」ということであり、これもやはり「天」=「神」への祈りの一つであります。
 江戸時代、寛政の改革を行った松平定信は、老中に就任した翌年、吉祥院の歓喜天に次ものような趣旨の「願文」を納めたといいます。それは「今年は米の出まわりがよく、高値にならず、庶民が難儀をせずにおだやかに暮らせるよう、私はもちろん、妻子の一命にもかけて必死に心願します。もしこの心願が筋ちがいで、庶民が困窮するというのであれば、いまのうちに私が死ぬようにお願いします」との内容です。
 さらに定信は、日々七~八度、東照宮を念じて重責を全うできるよう祈ったと、自身の伝記に書いています。こうした日々の祈りが、定信の力をもってすればいかんともしがたい面はあったものの、一面非常な成果もあがり、徳川後期に一つの光輝をそえることになったのです。
「行動の伴わない祈りは実現しない」といわれています。畑を耕し、種蒔きもせず収穫を得ようとすることなく、「祈りは必ず成就する」という堅信(かたい信仰)と、物質を祈るのではなく霊を祈り、祈りの後には神の智慧が導く通りに行動し、さらにそれぞれの祈りを成就してまいりましょう。

(2016.02.05 相愛会総轄実行委員長 澤田伸史)


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