三好 雅則(本部講師)
<“子離れ”ができていない>
この“金髪事件”で私には、はっと気づいたことがある。
子供たちに対する私の観方は
子供たちが小学生の時と変わっていなかった、ということだ。
子供はそれぞれ成長し、“独立した存在”へと脱皮しているのに、
私の観方は少しも成長していなかった。
長男の金髪を目の当た時、
確かに私は、彼が学童だあったころと同じような気持ちで対していた。
私に“子離れ”ができていなかったのである。
もちろん、これは「子供の言いなりになれ」という意味ではない。
少なくとも思春期を迎えるころまでの子供には、
社会生活上のルールはしっかり教える必要があるが、
その時期を越えたら、
親には、その自立を助けるような姿勢が必要であることを痛感させられた。
<甥の放蕩を直した良寛さんの涙>
こう書いて来て、良寛さんの、こんな逸話を思い出した。
良寛さんには放蕩三昧の甥がいた。
ある時、そのことで悩んでいたその母親から、
説教するよう依頼された良寛さんは、その家を訪れた。
その息子は叔父(良寛さん)に説教されると思って構えていたが、
3日3晩経っても説教する気配はない。
いよいよ帰ることになり、
玄関で帰り支度をしている良寛さんから、この甥はこう頼まれた──
「ワラジの紐を結んでくれないか」。
甥が言われるままに紐を結ん差し上げていると、
襟元に冷たいものが落ちてきた。
顔を上げると、良寛さんの目に涙が溢れていた。
以来、この息子の放蕩は、
ぴたりと止まったという。
相手を思いやる深い愛──言葉でいえば実に簡単なことだが、
良寛さんの、こうした行為には強く心打たれるものがある。
日々の生活の中で、自覚の中心をどこに置いて生きているか、
それが自ずからその人の一挙手一投足に現われる。
息子の金髪を見た時、私は一体、
自覚の中心をどこに置いていたのだろうか。
荘厳な「神性・仏性」を信じて、
温かくじーっと見守るような“愛の世界”から、
大きく離れていたに違いないのである。
<親は子供によって育てられる>
が、この一件で私は、今ここで述べているようなことに思い至らされた。
教育というのは、「相手の中に既にあるものを引き出すものである」と
生長の家では教えているが、
実に、息子によって私は、自分の中にすでにある、
“実相を信じる心”を掘り起こされたような気がする。
「親が子供を育てる」というが、
「親は子供によって育てられる」のである。
生長の家総裁・谷口清超先生はご著書『幸せはわが家から』の中で次のように示されている。
<<(前略)人生はあらゆる“教材”に充ち満ちているから、
この世を「人生教室」とか「人生学校」又は「人生大学」などと呼ぶ。
そしてここで学ぶことは、一口に言うと、
「人間のすばらしさ」であり、
「全てのものはみな有難い」ということである。>>
(同書106ページ)
(生長の家相愛会「父親教室」HPの「今月の講義」2002.11公開)